藍より青く

歌い手のそらるさんにハマったバンプオタのブログ。@momomomoai3

BUMP OF CHICKEN8thアルバム「Butterflies」感想(2016年2月執筆)

軽やかかつ広がりのある多彩な音像が、あまりにも自然に鼓膜を震わせる。
EDMの要素が強い曲、タイトで強靭なバンドサウンドが全面に表れた曲、アコースティックな印象が強い曲など、様々なアプローチがなされた柔軟なアレンジ。
そしてど真ん中にはいつものように強靭な響きを湛えた声が、以前よりさらに伸びやかかつ艶やかな佇まいで鳴り響き、まっすぐにこちらの心の奥底まで突き進む。
気負いなく、でも確かな衝撃をこちらに与える鮮やかな音楽。それがBUMP OF CHICKENの最新作、8thアルバム「Butterflies」である。

ライブでは各公演で数万人を動員し、昨年末には初めてのNHK紅白歌合戦にも出場したバンプ。今年で結成20周年を迎えた、経歴からいえばベテランのバンドであるのに、年々活動は活発化し、初の試みにも挑み続けているここ数年の彼ら。
そのたびに新たなファンは増えていき、同時に彼らのもとを離れていったファンもおそらく数多くいる。そのことを思うと胸の奥がきゅっと鳴る感覚を覚えてしまう。
バンプのフロントマンとして歌い続ける藤原基央というひとはこれまで、もう一体、どれだけのひとと出会い、そしてお別れしてきたのだろうか。

”その手を上げて見せて 生きていると教えて
 君と出会うために生まれる音に 命を与えて”
(孤独の合唱)

"伝えたかった事 伝わったのかな
伝えたかった事ってなんなのかな
君の昨日と君の明日を
とても眩しく思う “ 
(You were here)

「孤独の合唱」、「You were here」では、「ライブ」という、バンプとファンが生身で出会う場所について連想させる歌詞が歌われている。お互いの生を確かめ合う「ライブ」の時間は、あっという間に過ぎ去ってしまう。そしてその後、あの時その場にいたひとがどんな形でバンプに触れていくのか、彼には知りようがない。
一度のライブで会うひとたちの数は、もう眼では無数の光にしか見えないであろう程膨大で。そしてきっと様々な事情で、今後もう二度と会えないひともそこにいる。けれど、何ひとつ確かめる術を持たないまま、彼はまた次のステージに立って歌って一期一会を繰り返すのだ。それは一体、どれほどの孤独だろう。
そんな、こちらの勝手な感傷などそっと微笑みで返してみせるように、このアルバムに収録された11曲はどれも「痛みとともに生きる今」をふわりと音の元に羽ばたかせて、きらめいている。

収録曲で私が特に胸を打たれたのは「宝石になった日」。聴いてまず思い出したのは、6thアルバム「COSMONAUT」に収録されている「R.I.P」という曲のことだ。

”体温計でズルして早退 下足箱に斜陽 溜め息ひとつ 
母の日の朝 父さんとふたりで 尻尾の付いた友達の墓 

悲しいことは宝物になった 
君もきっと そりゃもう沢山持っているでしょう” 
(R.I.P)

「宝石になった日」は、その、宝石になった悲しいことについての歌に聴こえる。初めて死の存在を実感した時の思い出という宝石をそっと聴く者に見せてくれる、そんな歌だ。

”君は夜の空を切り裂いて 僕を照らし出した稲妻 
あまりにも強く輝き 瞬きの中に消えていった 

あとどれくらいしたら普通に戻るんだろう 
時計の音に運ばれていく” 
(宝石になった日)

何度聴いても、「どれくらいしたら普通に戻るんだろう」で泣きそうになる。苦笑するように顔をゆがめてしまう。君がいることを当たり前だと思っていた「普通」に戻る日なんて、来るわけがないから。
死を自分の身体で、稲妻に打たれるように感じる前の自分になんて戻らない。戻れない。ずっと寂しい。その寂しさをそっと抱きしめて生きていくひとがこの曲にいる。
君がいる普通には戻らないけれど、でも君がいない世界で自分が一見普通に生きていくことに罪悪感を覚えなくてもいいのだ。そう、自分にも聴き手にも言い聞かせているようにも思える。

“こんなに寂しいから 大丈夫だと思う 時間に負けない 寂しさがあるから
振り返らないから 見ていてほしい 強くはないけど 弱くもないから“
 (宝石になった日)

大切な存在と出会ったことが、別れの際に自らの心を殺していく重い鉛になってしまうのなら、絶対にいつかは死ぬ宿命にある私たちは、誰とも出会わない方が幸福なのだということになる。そんなことは絶対にない、と彼は歌う。

“大丈夫だ あの痛みは忘れたって消えやしない”(ray)

7thアルバム「RAY」でも、リードトラック「ray」をはじめとして、「別れの痛みが放つ光」が大きなテーマとして掲げられていた。「Butterflies」では「涙」や「宝石」といった具象物での比喩を使ってさらにそのテーマを探求している。
別れの悲しみとは、大切な存在と出会ったことのかけがえのない証であり、きらめきであること。そして、生きていく中で誰かとの別れによる痛みを忘れてしまった気がしても、心の奥底には痛みが、寂しさがちゃんとしまってあるから「大丈夫」なのだということを、バンプの楽曲は伝え続ける。

私が初めて身近な存在の死を経験したのは9歳の夏、私は今年の3月で29歳になるので奇しくもバンプの結成と同じ20年前の、曾祖母を亡くした時のことだ。曾祖母のことを私は「ババ」と呼んでいて、夏休みと冬休みのたびに遊びに行くのが楽しみだった。享年92歳、十分「大往生」と言われる死だろう。
でも私は悲しかった。何でババが亡くなったのにこんなに空が晴れているのだろうと、無性に腹が立った。ひと一人亡くなった位では、何も変わらない世界が悲しかった。葬儀からの帰り道、「ババは死んじゃったのに、私は元気で生きてていいのかな?」と呟いた私に、「いいんだよ」とそっと母が言った。
あなたが元気で笑って生きていたら、ババは嬉しいと思うよ。
その声の響きが今も胸の奥に残っている。そう信じたかったし、信じようと思った。空の青さを恨まず、笑って生きていこうと思った。曾祖母と過ごしたかつての時間。そして母からの言葉。どちらも私の中の柔らかいところにそっとしまってある宝石だったことに、「宝石になった日」を聴いてやっと気づいた。

バンプを聴いていると、自然と自分の人生を思い起こすことになる。20年ずっとステージの上で「歌って」生きてきた人の生き様と、それぞれの舞台でそれぞれの毎日を生きる私たちの生がシンクロしていく。

“涙は君に羽をもらって キラキラ喜んで 飛んだ踊った
 消えてしまう最後まで 命を歌った 量産型“(Butterfly)

別れとは、死とは、生きているもの誰もが味わう喪失だ。皆が経験するという意味では、いわば「量産型」の悲しみである。だからって「皆耐えているのだから」と、自分の痛みを押し込めて傷ついていることを自分にさえ認めずに、涙を堪えて生きていったりする必要はないのだと、曲がそっと教えてくれる。

思い返せば私が初めて「傷つくことは悪いことじゃないんだ」と思えたのは、14歳の頃、バンプの3rdアルバム「jupiter」というアルバムを聴いた時のことだった。それまで、傷つくとは自分の周囲にいる家族や友達を責めることだと思っていた。それより自分の傷なんて見ないで、痛いなんて感じないようにして、自分の感情から逃げている方が楽だし、そして正しいことである気がしていた。
でも「jupiter」に出会った時、身震いする心地がした。そこには、真剣に自分や他者と向かい合うからこそ生まれる傷をまっすぐ見つめ、ひとと触れ合うことで生まれた愛しさや優しさをそっと拾って、ひとつひとつを感じながら明日へと向かう生きものの姿があったから。「感じる」という行為から逃げない生き様はあまりに眩しかった。
それからずっとバンプの音楽が私の傍らにある。そして今も、彼らの「感じる」ことへのまっすぐさが変わらずにあること、かつ、よりタフになっていく在り方に、身が奮い立つほどの勇気を貰っている。

私たちは誰しも、生まれ落ちた時からもう嵐の中だ。自分で自らの存在を諦めたりしないで生きるという戦いに日々挑み、出会った生き物とはいつか必ず別れを迎えるという定めのなかで誰かを愛し、そして別れるたびに痛みを覚える。無傷でなんていられない。
そのたびに零れる彼らの、数多のひとの無数の涙。その涙のきらめきが、音という形となって私たちの耳に届く。

本当は怖いことばかりであろう臆病者たちは、常に自らの傷と向き合いながら必死に歩いている。見た目にはかつてよりも軽やかな歩調で、でも消えない痛みを抱いて。
このアルバムで鳴っているのは「彼らが今持っている覚悟」だ。覚悟を持ちたいという気概でも、踏み出すぞという宣言でもなく。「嵐のさなかで歩き続けてきたしずっと歩いていく」という、現在形でなされていて、そしてこれからも続いていくに違いない事実。
それは、臆病であっても弱くはないひとの「生きているよ」という肉声であり、同時に「君は生きているよ」というメッセージでもある。

“ハロー どうも 僕はここ”(Hello,world)

“ここにいるためだけに
命の全部が叫んでいる
涙で出来た思いが
この呼吸を繋ぐ力になる“(ファイター)

“掴むよ 掴んでくれた手を
闇を切り裂け 臆病な爪と牙”(ファイター)

強くなくたって、バンプはステージに立ってくれる。ステージの上で生き続けてくれる。その存在を、音を、そこから発されるきらめきをこの身に浴びて、ここにいるよと強く腕を上げたい。20年歌を歌ってきてこれからも歌っていくひとの持つ、今後またより多くの人と出会い、より多くのひととすれ違っていこうという、軽やかでありながら眼差しのまっすぐな覚悟をライブで受けとめたい。

いつだって真摯に、出会いと別れを繰り返してきたBUMP OF CHICKEN。さらに多くの人々との出会いと別れを繰り返すことになるスタジアムツアーにこれから向かう彼らの旅路に、心からの祈りを。そして、ライブでの彼らとの出会いを心待ちに、私は自分の毎日を生きていく。

歌い手で浪費する女

 劇団雌猫「浪費図鑑―悪友たちのないしょ話―」「シン・浪費図鑑―悪友たちのないしょ話2」という、様々なジャンルで日々活動するオタク女性たちがそれぞれのお金の使い方やジャンルの魅力を語っている本がある。今回はその本の見出しに倣って、私のオタク事情をつづってみようと思う。

 

 ニコニコ動画の「歌ってみた」カテゴリに、主にボーカロイド曲のカバーを投稿するひとのことを、通称歌い手と呼ぶ。私が今夢中になっている「そらる」は、2008年から活動を始めた古参の歌い手だ。動画投稿を続けながらCDのリリースやライブ活動も行っておりちょうど1年前、2017年11月25日にはなんと横浜アリーナでの単独公演をソールドアウトさせた。2012年に1stアルバムでオリコンウィークリーチャート7位を獲得、2016年からは歌い手・ボカロPの「まふまふ」とともにユニット「After the Rain」を結成し1st・2ndアルバムともにウィークリーチャート2位を獲得した。

 すでに動画投稿者の枠を超えるほどに実績を残してきてはいる彼が、ソロ名義での初めてのシングル、アニメ「ゴブリンスレイヤー」のエンディングテーマでもある「銀の祈誓」を11月28日にリリースする。

www.youtube.com

そらる 1st Single / 銀の祈誓-XFD - YouTube

 

 私はこのシングルを、初回限定盤Aを2枚、初回限定盤Bを2枚、ゴブリンスレイヤー盤を1枚、通常盤を11枚予約している。合わせて16枚。通常盤には5種類のフォトカードがランダムに封入されており、その内一種類は“当たりカード“となっていてハイタッチ会へ参加が出来る。さすがに11枚買ったら5種類のフォトカードは自力で全て揃い、ハイタッチ会への参加も出来るのではないか……甘いだろうか。まあそうなったら1080円×nをさらにレジに差し出すけれどひとまず現時点で確定しているシングルへの使用金額は2万520円。

 さてはて、この金額を、他のジャンルでオタク活動をしている成人女性の方はどう思うだろう。まあそれなりではあるけれど、ものすごく使っている、という印象でもないのではなかろうか。このタイトルで文章を書くことに決めたものの、「歌い手を応援する」ということに何か特別な、そのジャンル特有のお金の使い方があるかと聞かれたら答えは否かもしれない。そらるさんが「ハイタッチ会参加券」をCDにつけるのは初めてだし、接触イベントでセールス促進を図るのはアイドル文化から輸入されたものなので特に目新しいこともないだろう。オリコンチャートで戦おうとする上では当然の成り行きだとも思う。

 むしろ「お金の使わせ方を試行錯誤している」ことこそが、歌い手出自のひとびとの特徴かもしれない。無料で視聴できる動画サイトへの投稿から活動を始めた人のファンはお金を払わずに音楽を聴く環境に慣れている。彼らも、ファンがお金を出してまで自分の歌を聴かないかもしれないことは百も承知だ。だからこそ自分がファンに何を求められているのかを考え、しぶとく試行錯誤していく。その時々の時流に合わせて変えていく部分と変えない部分を、かなり自覚的に意識して動いていかないとあっという間にファンは離れていく。そういうシビアな認識が彼らにはある。

 そらるさんや、ユニットの相方であるまふまふさんの活動に関して言えば、CDを出すようになってもニコニコに「歌ってみた」動画を投稿することはやめない。youtubeの勢力が強くなった現在はyoutubeにも自分のチャンネルを作って、ニコニコに投稿した次の日にyoutubeにも歌ってみた動画を投稿することで転載を防いでいるし、youtubeのみにゲーム動画やyoutuber的な実写の動画などを載せてyoutubeチャンネル自体も活性化させようとしている。実写の動画と言っても、マスクはしており顔を全て出すということはないのだけれど。

 10年前の、ネットの世界とリアルの世界がもっと切り離されていた時代に生まれた存在である”そらる”は、未だにネットやメディアに100パーセント顔が出ている写真や動画を出すことはない。今回シングルに封入されるフォトカードも、口元を手で隠していたり横顔だったりするだろう。ライブでだけ、その顔を全て、リスナーに見せてくれる。

 彼を必死で追うようになってから2年9か月、私がオタク活動において使ったお金の大半はライブへの遠征費だ。名古屋から、東京はもちろん札幌、大阪、広島まで行った。今年は彼のワンマンツアーはなかったが、彼が出演したライブのすべてが東京で行われたため、地方民にはそこそこお金がかかる一年だった。8月は3回往復新幹線を使って東京に行き、内一回は宿泊もしているので全部込みでライブ代に10万以上は軽くふっとばしている。なんていうかもうこれは歌い手ファンの苦悩というより地方民の苦悩である。火曜日の午後3時に名古屋駅を出発し開演10分前に会場に入場、アンコールラスト曲開始と同時にZEPPTOKYO2階指定席の床を蹴って猛ダッシュ&終電チャレンジをして名古屋に帰ったこともあった。普通に辛い。それでもライブに行くことはやめられない。

 揺れる黒髪、ライトに照らされる真っ白な肌、繊細な奥二重の瞳、柔らかなピンク色をした厚めの唇……少し女性的な彼の顔立ちと、ふわりふわりと動く仕草をこの目に映すたびに失神しそうになる。正直、ぶっちゃけ、めちゃくちゃ顔が好きだ。見るたびに「顔が好きすぎる」と思うのだけれど、凛と響く歌声と愛らしい顔があまりに愛しくて、好きな思いがこの小さな脳みそをキャパオーバーさせるからか、ライブ会場を出た瞬間からさっきまでこの目で見ていたはずのその顔はぼやけ鮮明には思い出せなくなる。「ダウンロードは不可なんだね」by友人。でも笑っていたことは思い出せるし毎回「そらるさんって、笑うんだ」って思うし、何だろう、ネット配信で雑談するときの喋り方が気だるげで歌い方もシリアスなひとなのでもっと無表情なのかと思っていたら、笑うんだ、って毎回。私は綾波レイを見ているのだろうか。奇跡を見ているような、呼吸をして動いている姿を見ることも奇跡のような気持ち。これは彼がネット活動者だからというよりも、もともと何となく現実感のない、浮遊感を持った存在なのではないかと思うほどだ。

 ライブに行くたびにできる限りステージを見届けたいという気持ちは高まり、来年3月から始まる10周年全国ツアーではチケットさえ取れれば仙台(初日&そらるさんの地元)・札幌(私の地元なので帰省をかねて)・大阪(東京と比べれば近所)・名古屋(居住地)・幕張メッセ2days(大舞台は見届けたい主義)に行きたいと思っている。

 彼が出演するライブのキャパシティがどんどん大きくなっていくので、たとえ遠くの席でも不満を抱くことなく顔をはっきり見たいと考えて今年の夏、After the Rainさいたまスーパーアリーナでのライブの前に5万6000円出して倍率10倍の防振双眼鏡を買った。「何で去年の横アリ前に買わなかったんだ!」とものすごく後悔したので、この記事を読んでくれていてまだ防振双眼鏡を持っていなくてアリーナクラスの公演によく行く機会があって演者の顔を見たいタイプのオタクは今すぐに買ってほしい。今すぐに。

 このように複数買い(女性アイドルオタ的)、遠征(ジャニオタ・バンギャ的)、高額双眼鏡購入(ジャニオタ的)といった「小規模なオタク全部乗せ」なオタク活動をしているが、私が一番「歌い手にハマっているからこその悩み」だと思うのは金銭的なことよりも時間に関係することである。

 インターネットのひとは基本的に、活動が多い。仕事としての作業の息抜きにゲームをするにしても、配信をして今自分が何をしているかを発信してくれたりする。私は、歌だけではなく喋る声・内容・そこから受け手が感じるキャラクター性すべてが”そらる”というコンテンツを形作っていると考えているので、歌動画を再生しまくるだけではなくゲーム配信も雑談放送も何もかもを逃したくないタイプである。

 そんな中、彼の活動を追う上でネックになっているのは深夜の配信について。これは歌い手というジャンル云々ではなくてそらるという個人にハマっているゆえの固有の悩みかもしれないのだが、彼はしばしば「誰が起きてるんだよ」っていう平日ド深夜に、朝の4時~7時なんていうもはや夜でさえない時間に趣味であるゲーム(スプラトゥーン2)の配信をしてアーカイブを残してくれない。

 いや実はあんまり不満っていうのでもなくて、全然問題なく理解はできる。CD製作中に活動時間が夜になるのもよくわかるし、日頃の配信には数千人が来てTwitterに至っては126万人フォロワーがいる彼だからこそ時にはあまり多くない人数の前で気軽にちょっと喋りたいのもわかるし、むしろこれだけ活動が大きくなってさえネットでの発信を趣味の延長線上でやってもいることが伝わるのも嬉しい位の気持ちでもある。

 とはいえ、朝普通に目覚めてスマホに配信開始の通知記録だけ残っていてアーカイブは消えているのを見ると「うわ、寝なきゃよかった」と思ったりもする。たまに夜更かしをしている時に偶然アーカイブが残されない深夜配信を見られることがあって、彼の忌憚ない独り言が面白いのを知っているから。

 でも予告もされない深夜2時とか3時とか4時とかから始まる、言ってしまえば「他人が独り言をつぶやきながらゲームしているだけ」の放送を逃さずに全部見ようとしていたら私が社会生活を送れないので、彼の活動のすべてを追おうとしないのも健全な精神を保つコツである。

 そらるさん本人も、自分が活動を続けられるように、あまりリスナーの要望に応えすぎない位の方向性で活動し、精神を保ってくれているように感じる。実際、インターネットという活動環境で、視聴者の言葉はあまりにも当人に届きすぎるし、すべてを受け止めようとするとパンクしてしまうのだ。そのことは10年以上の活動の中で、多分当人が一番痛感しているのだろう。

 今回のシングルに収録されるのはカップリング曲を含めてすべて自作曲だが、これまでCDを出す際には親交のあるボカロPさんにも自分への曲を書き下ろしてもらってきた。そのような形の活動の中で出した2ndアルバムの際に受けたインタビューで答えていたことが忘れられない。

――激しいロックナンバーでいうと「アノニマス御中」(Neru)、「blue」(Last Note.)が収録されていますが、いずれも“姿の見えない敵と戦う”ような、挑発的でカタルシスのある歌詞になっていますね。

そらる:たぶん、自分のことをそういう風に見てくれているんだと思います。つまり、“知らず知らずのうちにもてはやされて、祭り上げられて、好き勝手に攻撃されて”って。こういう活動をしていればみんなあることでしょうし、自分が特別苦しんでいるとか、そういうことは全然ないんですけど、よく見てくれていて、考えて書いてくれたんだな、とうれしくなりました。こういう曲は自分で作って歌うことができないものだし、ありがたいですね。

(2ページ目)動画再生数は7000万回以上! そらるが語る、ネット発音楽のパワーと魅力 - Real Sound|リアルサウンド

 これまでの活動の中で、「歌い手」という叩かれやすいジャンルの中でも特に叩かれることが多かった彼だ。インターネットで活動する中で匿名の悪意に晒されることをあまりにも多く受けてきたひとだと、周りからも思われているということ。彼は、「自分が特別苦しんでいるということはない」と言いながらも、それほどに叩かれてきたように見えるんだなということは認識し、そのうえで、大丈夫だと言って活動をし続けている。

 彼が叩かれているのを見るのは、好き勝手に叩いていいコンテンツだと外部から思われているように見えることがあるのは、ファンとしても辛い。辛いけれど、今回のようにタイアップを貰うなど規模の大きな活動を行う上で、冷たい言葉を投げられることはこれからもあるだろう。それは、彼も、ファンである私たちも承知の上で、それでも彼にとって“そらる”という名前で活動を続けることがメリットの大きいことであってほしいと願っている。

 10年前、歌を歌うのが好きな大学生だった彼が、音楽で生きていこうとも思わずあくまで趣味として歌を投稿し始めたことが、今へと繋がっている。そして上記の2015年時のインタビューでは「激しいロックナンバーは自分には書けない」と言っていたが今回、シリアスな歌声が映える激しくも幻想的なギターロックの自作曲を聴かせてくれた。この曲調を書くことは彼の大きな挑戦のひとつだったようだ。

 一切商品として外側から手を加えられたり整えられたりしていない状態で人気が出たひとが、その人気ゆえにどんどん規模の大きいことができるようになっていくこと、「新しいことをどんどん頑張りたい」と言って成長しながら進んでいく姿を目撃できることはとても刺激的だ。

 あなたが、“そらる”という名の、自分自身でもあり他者から与えられたイメージでもある存在であり続けようとしてくれることが有難い。あなたが”そらる”であることに、お金を払わせてほしい。そんな思いで今はいっぱいだ。

 このシングルが売れたら、それは次の大きな活動にも繋がっていくだろう。気ままで自由で可愛くてシリアスで強気で、本当は脆い、それでもちゃんと強い、そんな”そらる”にこれからも色んな形で出会えたら、私はとても嬉しい。

ファンであることは暴力だとしても

After the Rainさいたまスーパーアリーナ2days「雨乞いの宴」「晴乞いの宴」が行われたり
After the Rain2ndアルバム「イザナワレトラベラー」が発売されたり
オリコンランキングがジェットコースターの末ウィークリー2位になったり
そらるソロでアニメ「ゴブリンスレイヤー」エンディングテーマをやることが発表されたり
シングル「銀の祈誓」発売が決定したり
半年後の全国ツアーも発表されたり

精力的な活動に圧倒されるばかりの日々。

とても精力的であるけれど、”疲弊”のことはいつも考えている。
そらるという名で活動をしてきてもう10年という年月、色々なことがあって、
その上で正式にユニットを組んで全力で駆けてきた2年9か月。
疲れているに、決まっている。

AtRというユニットもかなり凄まじいところがあって
私には「二人三脚をしながら100メートルを9秒台で走ろうとする試み」のように見える。
「二人三脚」は比喩ではなくて、具体的に足の片方を結んで、足並みを揃えて走る、あの競技のこと。
彼らは違う人間でそれぞれソロでの活動者であるけれど、
「ユニットを組んだからにはトップスピードで駆け抜けたい」という点は一致している。

ユニットでも、ソロでも、よりトップスピードを。

トップスピードであることを求めているのはリスナーなのかもしれない。
インターネットを活動の主軸にしている存在がスピードを求めていくのは自然の流れかもしれない。
消耗してほしくない、消費したくない、なんて思うことはそれなりに綺麗事だ。
その一方で、多くの人の目に触れて何か嫌なことを言われてほしくないと思うこともエゴだ。

向けられる好意も悪意も同じように対象を摩耗させる。
好意を持っているものが、悪意を持っているものに対して苛立つことも、

対象自身を疲弊させる可能性のある刃だ。

他者に向ける感情は、どんなものも刃だ。

数多の見知らぬ他者から向けられるそれなんてもう、致命傷を作り得る凶器だ。
それでも、だけどそれでも、活動してきてよかったと思ってほしい。
思ってくれていると信じているし、あと少しで試聴できる「銀の祈誓」を緊張しながら待っている。

この、自分のことでもないのに「緊張する」ということ自体、どうなんだろうとも思う。
「そらる」というひとを追っていると、過度に感情移入してしまう。
少年漫画を読みながら「この試合、この学校には絶対に負けてほしくない」と思う時のように。

歌い手というジャンルを「距離が近い」と思ったことは私はほとんどなくて、
いつも「キャラクター」を見ているかのように遠い。
キャラクターじゃなくて人間なのに。

いつだって、私はファンでいるということはほとんど暴力だなと思っている。
バンプを神格化することも、そらるさんをインターネットに棲む妖精のように思うことも、暴力だ。
登場人物じゃなくて読者でいたいのだ。同じ世界に住む人間に対して。
偶像という意味でアイドル的なものを求めていると思う。
もう2年半求め続けてきたし、わりと今更なのだけれど。
見たい。彼が見る、高いところからの景色を、見た気になりたい。
いつも申し訳ないしいつもありがたいし、そんな気持ちだ。

ちなみに、今日、はんぺんおやすみクッションが自宅に届いた。
ふわふわもちもち。ありがとう。

ビー玉の中の宇宙の旅大阪、初対面~真っ白な男の子~

AtR両国とバンプ日産の日程がそっくり被ったので、私が初めてそらるさんをライブで見るのはソロワンマンツアー「ビー玉の中の宇宙の旅」初日大阪ということになった。

私は名古屋に住んでいるのでいきなり遠征。ファイナルの名古屋まで待てないと思ったので……。

そらるさん、単独でバンド形式&スタンディングのワンマンやるの、これが初めてだったんですよね。

ワンマンライブはこれまでアコースティックライブ&シッティング形式でやってきていて。

バンドを率いるフロントマンとしては新人の彼をライブで見ることになるので、どんな感じかなーと思っていたら、

それがもうめちゃくちゃよかったから、今ここでこんなブログを書いているわけですね……。

ビー玉の中の宇宙の旅が素晴らしいツアーだったから、私は今猛烈なそらるさんファンとして今ここにいるといってもいい。

まず「ビー玉の中の宇宙の旅」というツアータイトルが優勝みたいなところありますもんね。ロマンティックの神様。

「子どもの頃、ビー玉を光に透かして見てみたら、気泡が星みたいに見えた。

そのころの記憶や感覚を忘れたくない」

という意図で作られた、「ビー玉の中の宇宙」というアルバム。表題曲を彼が書いて、あとは彼が好きなボカロPさん(ユニットでの相方まふまふさん含む)に「星・宇宙」をテーマに曲を書いてもらったコンセプトアルバムは

どれもいい曲を書いていただいて、「この曲、自分の名義で発表したほうがいいんじゃない?」って思うくらいレベルが高いと思っています(笑)

natalie.mu

と、本人が言うほどに、それぞれのボカロPさんの特色が生きた名曲が揃っている。

それにしてもこんなことさらっと言わないでほしい、という気持ちもあるけれど。

「そらる」の作品として発表するアルバムの中にこんなにいい曲を提供してもらっていいの?なんてことを、こんなにサラッと言わないでほしい。

見くびられすぎてきたなあと、思うのだけれど、それはここでは置いておいて。

素晴らしいアルバムを引っさげてのツアーだったから、良いものになるだろうという予感はあったけれど、凄まじかった。

なんばhatchで、初めてライブを見た時の衝撃は忘れられない。

真っ白な男の子、だった。

肌も、衣装も、緊張を体中に纏わせた佇まいも。全部真っ白で、その白く発光する少年が、照明と客席が掲げるペンライトによる青に染まり、ライブハウスという名の美しい小宇宙に揺蕩っていた。

その日彼は全身からナイーヴさを発していた。

顔立ちは想像以上に女性的でやわらかく、虫も殺さぬような風貌で、儚げだった。

今思い返しても、初日で物凄く緊張していたゆえだと思うのだけれど、緊張がピリピリというよりもっと繊細な、しんしんとした空気となって彼の身体の周りを漂っていた。

はっきり言って

「ここまでナイーヴそうな子がネットでめちゃくちゃ叩かれてきたの?」

というのが率直な第一印象だった。

「このひと目の前にしてもネットの向こう側のひと、このひとに罵詈雑言って言える?言えなくない?」

もちろん誰を目の前にしたって罵詈雑言を吐いてはいけないのは当たり前だけれども、それにしたって輪郭の危うい男の子だった。

そこにいるのに、実体を持った人間のように見えなかった。ふわーっと、真っ白だった。

妖精のように子犬のように震えているかのような雰囲気で、それなのに声量は全くバンドの轟音に負けない。

声量がありつつもふわーっと静かに儚く空間に声が溶けていくわたあめのような声。

正直舐めていた、と思った位、彼はれっきとしたボーカリストであり、ステージにおけるフロントマンだった。これは単に歌が上手いということではなくて(生歌上手い!とも思ったのだけれどそれよりもさらに)、

歌及び挙動から「そらる」というひとのオーラが感じ取れるということだ。

曲を提供してくれるボカロPやサポートメンバーの手を借りながら、ステージから発される一番の何かは

「そらるというひとの醸し出す、危うさ、ひたむきさ、儚さ、無垢さ」

そのものなのだ。

 “壊れたって燃え尽きたって それでも走り続けた”

(Discord Alien/buzzG)

 

 このフレーズが痛々しい程ハマるから多分私はこんなにも好きなのだと思う。

壊れないで欲しいし、燃え尽きないで欲しいけれど、でも私には「壊れたって燃え尽きたってそれでも走り続け」る彼を見たい欲望も存在するのだった。

仄暗い歌をシリアスな声で歌い続けてほしい。罵詈雑言にも涼しい顔をして、でも決して平気じゃなくたって、それでも歌い続けてほしい

そういう存在でいてほしい、という私の醜い程のエゴが、彼が曲を提供されて歌っているという事実で少し許されるものになる気がした。実際、許されるのかは知らないけれど。

そしてファーストインプレッションとして強烈だった「ナイーブさ」はもしかしたら、初めてのバンド形式ソロワンマン初日にあたっての体力面の不安や、物販が早々に売り切れてしまったことに対する申し訳なさが関係していたのもしれないとも思う。この2年で、そらるさんのライブは二桁に乗るだけ見たけれどビー玉大阪ほど危うい雰囲気を湛えた存在に見えたことはなかったから。

何より、バンドサウンドをバックに自分が二時間歌いきるということにやはり慣れていなかったのだと思う。

もう数曲をこなした後に歌った「文学少年の憂鬱」、イベントなどでよく歌う十八番のこの曲のラスト、凄まじいロングトーンを聴かせた後同じボカロPさんが作詞作曲した「ユラユラ」、歌い出したものの、歌声が途切れる。歌詞が分からなくなったのかと思うも、また歌い出す。まだ途切れる。その様が、スクリーンに歌詞が映しだされては消えていく光景と重なっていたものだから、もしかして演出なのかな?と一瞬思うほどだった。サビに行く頃には、歌えるようになっていたのだけれど終わった後のMCで

「文学少年でやりすぎて(息を深く吐いて歌いすぎて)、酸欠になってしまって手が痺れて、もう、一度捌けようかと思った」

というくらいに苦しかったようだ。

肉体が、まだワンマンライブのペースを覚えていないのだ。アコースティックライブの時は奏者さんとのトークを入れながらゆっくりと歌っていくものだったよう(見ていないのだけれど)で、バンド形式でのワンマンとは違う。

数曲のみのイベント・まふまふさんと二人で交互に歌えるユニットワンマン(この時点では私はそのどれも見てはいないのだけれど)とも過酷さが違う。

この大阪、喉などのコンディションは恐らくとても良くて、それゆえについ、数曲歌うだけなのならば可能な全力を出して歌ってしまう。

「ユラユラ」が露骨に苦しそうだったけれど、初日の大阪公演は実は前半からかなりペース配分を間違って苦しかったようだ。

「ペース配分をしなければいけない」ということも歯がゆさがあったのかもしれない。

そのあたりの、動画を投稿してきたひと特有の、肉体の限界と精神のズレというか、体力と気持ちの擦り合わせができていない感じがものすごく魅力的だった。

緊張しながら、悪戦苦闘をしながら、白い頬を震わせて、それでも見事に美しい小宇宙を観客に見せてくれる公演だった。

場の演出も美しかった。お洒落なミラーボール、そして天井からいくつも吊るされている、中にペーパーフラワーのような綺麗な細工物の入ったガラス玉。イメージカラー通り青主体の照明。SEはまふまふさんが手掛けた曲「プルート」のイントロ、そんなところにもユニットへの思い入れを感じる。

彼が選んだ、好きだと思った、綺麗なものたちだけがその空間にあって、その空間には彼のことを好きな人たちだけがいる。

日頃の動画やTwitterは、ファンだけが見るわけではないけれど今このライブの間だけは、彼に向けられる思いは好意しかない。別に今まで、ワンマンライブでそんなことを気にしたことはなかったのに、妙に心地よいことに感じた。

緊張していても、酸欠になってユラユラしていても、見守りたいし、ただひたすら「大丈夫だよ」と見守ることが出来るのだ。会場中がそういう雰囲気だった。何を搾取しようとしているのではなくて、興奮や熱狂の源を求めようとしているのではなくて、「あなたの歌が好きで、あなたが好きで来ているから大丈夫だよ」とみんなが思っている気がするような、アットホームな空間だった。

バンプの睡眠時間とそらるさんの親和性

昨日はそらるさんが残している中で一番古い動画「睡眠時間」を投稿してから10年という記念日でした。

そらるさんが昨日10周年ありがとうございます放送の冒頭で「ちょっと話したいこともあるので」と言った時は背筋が伸びてちょっと緊張したのですが、その話したいこと・伝えたいことは

「みんな聴いてくれて応援してくれてありがとう卍マジ感謝卍」

みたいなことだったっぽいので心から安心してあたたかくなりました。

「何で(10年も)そんなに頑張れるんですか?頑張ってないよ好きなことしてるだけだもん」と返すところが本当に好きだなって思いました。

やっぱりこう、何だろう、根が前向きですよね……。それは繊細だからだとも思うけど

辛いことを辛いこととして置いておいたら耐えられなくなってしまう、あれは意味があることだったんだと思うことで自分を支えている側面もあるというか。

一貫して私はそらるさんのことを物凄くナイーブな男の子だと思っていて、だからこそ

「楽しいよ」「活動を続けてきてよかったよ」

って言ってもらえると、よかったって思うんです。そんな幸せなことがあるかって。

 

BUMP OF CHICKEN「睡眠時間」弾き語りカバーを投稿した日が記念日となっていることで、この曲がそらるさんリスナーに知られていることも嬉しい。

バンプオタなそらるリスナーという名目でこのブログをやっているので、今日は「睡眠時間」という曲を簡単に説明したいと思います。

この曲は藤原基央さんが病床にいた父方のお祖父さんのために作ったものだと記憶しています。もう死を覚悟していたお祖父さんに、何か届けられるように、お祖父さんが「昔の音楽は、音の始まりと終わりは同じだった(ドから始まったらドで終わる、みたいなこと)」と言っていたのを思い出してその構造で曲を作っているらしいです。お祖父さんに届くように。

音域の広い曲ではないのもあって、お祖父さんが亡くなってしまった後、火葬場でこの曲をハーモニカで吹いて届けることが出来たと言っていた記憶があります。

歌詞の内容は少年時代の思い出と眠ることへの恐れです。

 

“眠る前に閃いて毛布の中に隠れた

二段ベッドの船の上でなぞった小さな物語

 

このまま起きていられたらなあ

子供はいつだって 大忙し

おやすみ 続きは 夢の中で

 

眠れずに 時計の音と呼吸のリズム 気になった

息を吸った 吸ったら吐いた 考えているうちに苦しくなった

 

このまま 生きていられるかなあ

馬鹿馬鹿しくたって大慌て

おやすみ 気付けば 夢の中へ“

BUMP OF CHICKEN/睡眠時間)

www.utamap.com

 

藤原基央さんはかつて親が死んでしまうとかいつまで生きていられるのかとかそういうことを考えて夜だくだくに泣いてしまう子どもだったと繰り返し話していて、この曲もそういう思い出が濃厚に映し出されているのだけれど。よくあることだとは思うのだけれど。

改めて抜き出してみるとこの曲めちゃくちゃそらるさんっぽくないですか!?

私の中のそらるさんは、いつでも少年時代の自分を振り返り大事に抱きしめているし眠ることと死ぬことを怖がっている!!

まふまふさんとマイクラをやっていてもいきなり

「何でみんな死ぬ時に、自分が死ぬってことを受け入れられるの?」

みたいなことを語り出して

「もう少し楽しい話しましょう?」

って言われてたな……。

何か、めちゃくちゃ、「そらるというひとのイメージ」が私の中で一貫したものとしてあるんですよね。ひとの言葉(曲)を借りながらキャラブレしない。

 

“そらる:寝るのって怖くない? 目覚めないかもしれないじゃんと思って、寝る時にすごく怖くなることがあるんですよね。意識がなくなるなんてすごく怖いことなのに、みんなフツーに寝ててスゴイなって。”

(歌ってみたの本2016年5月号AftertheRain「クロクレストストーリー」全曲レビュー16.アイスリープウェル(作詞・作曲・編曲まふまふ)より)

 

あとこの曲3拍子なんですよね。そらるさんの自作曲、「POCO」「嘘つき魔女と灰色の虹」「ビー玉の中の宇宙」(一部)と3拍子が印象的なものが多いので、そこらへんでも現在に繋がるものがあるなと思います。

そらるさん10歳!!!!!!!!!!

そらるさん活動10周年おめでとうございます!!!!!!!!!!!

 

初投稿はこの日付ではないのだけれど、「睡眠時間」の動画を残しておいてくれた(友達に絵を描いてもらっていたからだと予想しているけど)おかげで私がそらるさんに夢中になることが出来ているから、数々の偶然と出会えたことに本当に感謝しています。

この10年の間にニコニコ動画という動画投稿サイトや歌ってみたというムーブメントもどんどん変化してきたと思うのですが、ひとりの男のひとが自分の人生の19歳から29歳までの間ずっと「そらる」という名前で活動してくれていることって本当に凄いことだなって思います。

 

“君が知らないいつかの僕になりたくて

僕が忘れたあの日の君に会ったんだ

 

顔も知らない誰かに誘われて

拙い初めの一歩は怖くなかったんだ

 

何も知らず手に入れたボロの魔法の剣

それでも輝いて見えたはじめての冒険だ

 

がむしゃらにただ走ってきた

怖いことなんてなかったさ“

(夕溜まりのしおり)

http://j-lyric.net/artist/a056b9d/l035fd9.html

 

ソロでのセカンドアルバム「夕溜まりのしおり」のタイトル曲「夕溜まりのしおり」で、そらるさん自ら、自分の活動の軌跡を言葉にしてくれています。

「君」も「僕」も自分(「君」が“そらる”としての活動を始めたばかりの過去の自分、「僕」が“そらる”として活動を重ねてきた今の自分、と解釈しています)、自分との対話と思い出の振り返りが主題となっているこの曲。例えば、ドラクエを始めるような時のような。「歌ってみた」カテゴリをメインとした活動は、ひとりの男の子の冒険譚だったんだなあ……と感慨深くなります。

多分、音楽を使って自己表現をしたかったというより新たな遊び、冒険をしたくてここまできた、というのが伝わるところが好きなんだと思います。

「怖いことなんてなかった」と口に出すのは、活動を重ねるうちに怖いことも生まれてきたからだろうし、辛いこともあっただろうし、ひとと出会った分だけ上手くいかないこともあっただろうし、いくらでもしんみり考えることは出来るのだけれど。

 

“あの日踏み出した一歩が今日も続いてて

道の途中出会ったひとと友達になって

 

もちろん失敗することだってあったけど

結構満足さ僕のほんの一ページ“

(夕溜まりのしおり)

 

こう歌われると、これからも「活動しててよかった」と思い続けて欲しいって気持ちでいっぱいになります。

去年のツアータイトルが「夢見るセカイの歩き方」なのも物凄いなって。

ずっと“そらる”という名前で夢見るセカイを旅してきた、その物語がライブとオーバーラップしてキラキラする感覚。

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動画投稿し続けた先に行き着いたのが横浜アリーナで、そのライブを10周年の記念日にDVDにしてくれるなんて、何て幸福なことだろう……。

届くのが楽しみ!

2010年代半ばのバンプと初音ミク及びニコ動音楽

2016年というのは(近年、2000年代後半の沈黙期間が信じられないほどに活動しているバンプではあるのだけれど)バンプがとてもアクティブだった年で、2016年2月10日に8thアルバム「Butterflies」を発売し2月11年に20周年記念ライブを行い、更に4/9~7/17には初のスタジアムツアーが決まっていた。

バンプはアルバム発売にあたって三年間隔が空いてもおかしくない位割と寡作なバンドなのだけれど、「Butterflies」は前作「RAY」を出してから1年半の間隔で発売された。RAYでも片鱗を見せていた積極的に打ち込みを取り入れていく姿勢、EDM路線が更に加速していき、2000年代前半からのファンとしても、バンプが見たい視界の先を捉えようと必死だった。今になってみるとバンプの変化とその意味を、受け手としても言語化することが可能だ。

簡単にまとめると、バンプとは幼稚園時代からの幼馴染で10代半ばにして組んだバンドであり、まず人間関係から始まっているゆえに元々音楽的に「やりたい理想のスタイル」は固定していないバンドであった。初期のシンプルなギターロックという評はあくまで外部から与えられたもの、自分たちの精神の在り方がそのまま音楽のスタイルに直結する彼らだからこそ、色んなクリエーターとコラボしていく中で一度「どんな形の服も着てみる」ことこそがより自分たちを自由にするのではないかという試みがそこにはあった。

だけれど、当時の私は、まだ戸惑いの中にいたと思う。2014年の、RAYの時点での戸惑いからいよいよ逃げられなくなったのが2016年だったという方が近いのかもしれない。供給の多さにも戸惑っていたし、その中で20周年記念ライブのように決定的に受け取り損ねたものがあると、もうあっけなくその後悔に立ち止まってしまう。最初、そらるさんの動画を聴くことは、気晴らしだった。そらるさんの過去動画を一気に聴いていく中で数年分のニコニコ動画音楽カテゴリの特徴を一気に把握する事態にはなったけれど、個人的にはバンプの20周年記念ライブという「行けなかったもの」を悔やみながら新譜を聴き、土臭さやいなたさ・つたなさの中に見えるピュアな衝動をバンプと切り離せないものとして考えてきたことは違ったのかもしれないと立ち止まり、スタジアムライブでどのような景色を見ることになるのかを考えていく方がずっと情報量として膨大な、処理しきれないものだったからだ。

偶然の思し召しでニコ動音楽に私が触れていくことは、2014年に「ray」という楽曲で初音ミクとデュエットし東京ドーム公演にもミクが登場した2010年代半ばのバンプを理解していくのにも非常に適していた。

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かつてFLASH動画において(本人たちが知らないところで)多大に二次創作されてきた、1979年生まれの彼らより下の世代(1980年代後半~1990年代前半生まれ・私が知る限りでは米津玄師(ハチ)さん、NeruさんといったボカロPさんがバンプの影響を公言している)に大きな影響を与えた彼らが、それでいて下の世代のバンドに言及したり主催ライブを開いて直接的なチャンスを与えたりすることはなかったバンプが、初めて「自分たちは次世代のミュージシャンとの繋がりの上に立っている」ことを彼らの側から示したのが「ray」だったのかもしれない――――というようなことを、そらるさんの「歌ってみた」と本家のボーカロイド曲をセットで聴き進めていく中で考えていた。

別にきっかけは歌い手じゃなくても、そらるさんじゃなくてもよかったかもしれない。でも多分バンプが「初音ミク」とコラボしたという事態がどういう意味を持つのかを知るには数々のボカロ曲の存在を知ることは必須だったように私には思える。そしてそのためには、「ボーカロイド」という「歌うロボット」という概念及びその音声のことは聴き浸るほどにフックを感じなかった人間にとっては、「歌い手」という肉声を持つ、同時に二次創作であるから本家であるボカロ曲を聴くことがマナーであるとされる存在に興味を持ったことはものすごく幸運なルートだった。

それもこれも2008年7月22日にそらるさんというひとが偶然にも「睡眠時間」という動画を投稿してくれていて、2016年にも積極的に活動して人気を保っていてくれていたからだ。

よく歌い手という存在はインターネットカラオケマンというふうに揶揄されたり客寄せの意味合いで扱われたりしている印象を持つけれど、その意味で、彼は私という、今まで違うところにいた客を見事に「ニコ動音楽」というフィールドに客寄せしてくれた。