ビー玉の中の宇宙の旅大阪、初対面~真っ白な男の子~
AtR両国とバンプ日産の日程がそっくり被ったので、私が初めてそらるさんをライブで見るのはソロワンマンツアー「ビー玉の中の宇宙の旅」初日大阪ということになった。
私は名古屋に住んでいるのでいきなり遠征。ファイナルの名古屋まで待てないと思ったので……。
そらるさん、単独でバンド形式&スタンディングのワンマンやるの、これが初めてだったんですよね。
ワンマンライブはこれまでアコースティックライブ&シッティング形式でやってきていて。
バンドを率いるフロントマンとしては新人の彼をライブで見ることになるので、どんな感じかなーと思っていたら、
それがもうめちゃくちゃよかったから、今ここでこんなブログを書いているわけですね……。
ビー玉の中の宇宙の旅が素晴らしいツアーだったから、私は今猛烈なそらるさんファンとして今ここにいるといってもいい。
まず「ビー玉の中の宇宙の旅」というツアータイトルが優勝みたいなところありますもんね。ロマンティックの神様。
「子どもの頃、ビー玉を光に透かして見てみたら、気泡が星みたいに見えた。
そのころの記憶や感覚を忘れたくない」
という意図で作られた、「ビー玉の中の宇宙」というアルバム。表題曲を彼が書いて、あとは彼が好きなボカロPさん(ユニットでの相方まふまふさん含む)に「星・宇宙」をテーマに曲を書いてもらったコンセプトアルバムは
どれもいい曲を書いていただいて、「この曲、自分の名義で発表したほうがいいんじゃない?」って思うくらいレベルが高いと思っています(笑)
と、本人が言うほどに、それぞれのボカロPさんの特色が生きた名曲が揃っている。
それにしてもこんなことさらっと言わないでほしい、という気持ちもあるけれど。
「そらる」の作品として発表するアルバムの中にこんなにいい曲を提供してもらっていいの?なんてことを、こんなにサラッと言わないでほしい。
見くびられすぎてきたなあと、思うのだけれど、それはここでは置いておいて。
素晴らしいアルバムを引っさげてのツアーだったから、良いものになるだろうという予感はあったけれど、凄まじかった。
なんばhatchで、初めてライブを見た時の衝撃は忘れられない。
真っ白な男の子、だった。
肌も、衣装も、緊張を体中に纏わせた佇まいも。全部真っ白で、その白く発光する少年が、照明と客席が掲げるペンライトによる青に染まり、ライブハウスという名の美しい小宇宙に揺蕩っていた。
その日彼は全身からナイーヴさを発していた。
顔立ちは想像以上に女性的でやわらかく、虫も殺さぬような風貌で、儚げだった。
今思い返しても、初日で物凄く緊張していたゆえだと思うのだけれど、緊張がピリピリというよりもっと繊細な、しんしんとした空気となって彼の身体の周りを漂っていた。
はっきり言って
「ここまでナイーヴそうな子がネットでめちゃくちゃ叩かれてきたの?」
というのが率直な第一印象だった。
「このひと目の前にしてもネットの向こう側のひと、このひとに罵詈雑言って言える?言えなくない?」
もちろん誰を目の前にしたって罵詈雑言を吐いてはいけないのは当たり前だけれども、それにしたって輪郭の危うい男の子だった。
そこにいるのに、実体を持った人間のように見えなかった。ふわーっと、真っ白だった。
妖精のように子犬のように震えているかのような雰囲気で、それなのに声量は全くバンドの轟音に負けない。
声量がありつつもふわーっと静かに儚く空間に声が溶けていくわたあめのような声。
正直舐めていた、と思った位、彼はれっきとしたボーカリストであり、ステージにおけるフロントマンだった。これは単に歌が上手いということではなくて(生歌上手い!とも思ったのだけれどそれよりもさらに)、
歌及び挙動から「そらる」というひとのオーラが感じ取れるということだ。
曲を提供してくれるボカロPやサポートメンバーの手を借りながら、ステージから発される一番の何かは
「そらるというひとの醸し出す、危うさ、ひたむきさ、儚さ、無垢さ」
そのものなのだ。
“壊れたって燃え尽きたって それでも走り続けた”
(Discord Alien/buzzG)
このフレーズが痛々しい程ハマるから多分私はこんなにも好きなのだと思う。
壊れないで欲しいし、燃え尽きないで欲しいけれど、でも私には「壊れたって燃え尽きたってそれでも走り続け」る彼を見たい欲望も存在するのだった。
仄暗い歌をシリアスな声で歌い続けてほしい。罵詈雑言にも涼しい顔をして、でも決して平気じゃなくたって、それでも歌い続けてほしい。
そういう存在でいてほしい、という私の醜い程のエゴが、彼が曲を提供されて歌っているという事実で少し許されるものになる気がした。実際、許されるのかは知らないけれど。
そしてファーストインプレッションとして強烈だった「ナイーブさ」はもしかしたら、初めてのバンド形式ソロワンマン初日にあたっての体力面の不安や、物販が早々に売り切れてしまったことに対する申し訳なさが関係していたのもしれないとも思う。この2年で、そらるさんのライブは二桁に乗るだけ見たけれどビー玉大阪ほど危うい雰囲気を湛えた存在に見えたことはなかったから。
何より、バンドサウンドをバックに自分が二時間歌いきるということにやはり慣れていなかったのだと思う。
もう数曲をこなした後に歌った「文学少年の憂鬱」、イベントなどでよく歌う十八番のこの曲のラスト、凄まじいロングトーンを聴かせた後同じボカロPさんが作詞作曲した「ユラユラ」、歌い出したものの、歌声が途切れる。歌詞が分からなくなったのかと思うも、また歌い出す。まだ途切れる。その様が、スクリーンに歌詞が映しだされては消えていく光景と重なっていたものだから、もしかして演出なのかな?と一瞬思うほどだった。サビに行く頃には、歌えるようになっていたのだけれど終わった後のMCで
「文学少年でやりすぎて(息を深く吐いて歌いすぎて)、酸欠になってしまって手が痺れて、もう、一度捌けようかと思った」
というくらいに苦しかったようだ。
肉体が、まだワンマンライブのペースを覚えていないのだ。アコースティックライブの時は奏者さんとのトークを入れながらゆっくりと歌っていくものだったよう(見ていないのだけれど)で、バンド形式でのワンマンとは違う。
数曲のみのイベント・まふまふさんと二人で交互に歌えるユニットワンマン(この時点では私はそのどれも見てはいないのだけれど)とも過酷さが違う。
この大阪、喉などのコンディションは恐らくとても良くて、それゆえについ、数曲歌うだけなのならば可能な全力を出して歌ってしまう。
「ユラユラ」が露骨に苦しそうだったけれど、初日の大阪公演は実は前半からかなりペース配分を間違って苦しかったようだ。
「ペース配分をしなければいけない」ということも歯がゆさがあったのかもしれない。
そのあたりの、動画を投稿してきたひと特有の、肉体の限界と精神のズレというか、体力と気持ちの擦り合わせができていない感じがものすごく魅力的だった。
緊張しながら、悪戦苦闘をしながら、白い頬を震わせて、それでも見事に美しい小宇宙を観客に見せてくれる公演だった。
会場の演出も美しかった。お洒落なミラーボール、そして天井からいくつも吊るされている、中にペーパーフラワーのような綺麗な細工物の入ったガラス玉。イメージカラー通り青主体の照明。SEはまふまふさんが手掛けた曲「プルート」のイントロ、そんなところにもユニットへの思い入れを感じる。
彼が選んだ、好きだと思った、綺麗なものたちだけがその空間にあって、その空間には彼のことを好きな人たちだけがいる。
日頃の動画やTwitterは、ファンだけが見るわけではないけれど今このライブの間だけは、彼に向けられる思いは好意しかない。別に今まで、ワンマンライブでそんなことを気にしたことはなかったのに、妙に心地よいことに感じた。
緊張していても、酸欠になってユラユラしていても、見守りたいし、ただひたすら「大丈夫だよ」と見守ることが出来るのだ。会場中がそういう雰囲気だった。何を搾取しようとしているのではなくて、興奮や熱狂の源を求めようとしているのではなくて、「あなたの歌が好きで、あなたが好きで来ているから大丈夫だよ」とみんなが思っている気がするような、アットホームな空間だった。